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炭鉱関係記章類
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三井石炭鉱業㈱優良社員
直径1.5㎝のバッジ裏面には「179」と「純銀金張」と 刻印されてある。また、「三井石炭鉱業株式会社優良社員章」と刻まれてある。 三井石炭鉱業株式会社は昭和48年8月に三井鉱山㈱から分離独立して設立されたことから、その頃の記念バッジだと思われる。優良社員と 認められた三井三池鉱業所社員が東京本社で表彰を受けたときのものかも知れない。 -
三井石炭鉱業㈱ネクタイピン
このネクタイピンは、1973(昭和48)年、三池鉱業所 が三井鉱山㈱から分離され、三井石炭鉱業㈱と名称が変更されたときに、三井石炭鉱業㈱の社員となった鉱員に社員バッジと共に配布され たときのもの。そのとき大多数が新労働組合に所属していた。 三井鉱山㈱時代の炭鉱労働者は身分的に社員ではなく、「鉱員」と呼ばれ別格扱いされていた。そこに三井の根強い身分差別の歴史を 読み取ることができる。 なお、複数の元三池労組員の話によると、「社員バッジやネクタイピンのこと、いま初めて知った。1973年と言えば三池労組がCO患者 422名とその遺族を原告としたマンモス訴訟を提訴したとき。また、三池労組は合理化としての三井鉱山からの分離にも反対していた。 だから会社が三池労組員には配布しなかったか、あるいは三池労組が社員バッジ等を拒否したか、どちらかであろう」とのことであった。 -
三池労組組合員記
三池労組の組合員記章は、昭和35年12月 以降の三池闘争後につくられた。 「坑内は黒く塗った坑内帽にクッキリと白線3本、(中略)これが闘争中の鉢巻に変わった三池の労働者を象徴するものであった。この 三本線はフランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」になぞらえて「団結・抵抗・統一」を意味するものとして、三池労組の長期抵抗 路線のシンボルとなった。(中略)就労にあたり、三池労組員と第二組合員とを坑内でもわかるように白の3本線がつくられた。(中略) 白線の幅7ミリ、白線と白線の間隔も7ミリと統一」(「みいけ20年 三池炭鉱労働組合編」より)された。 勤務が終わって私服に着替えたときは三池労組組合員記章を身に付けた。そして、三池労組員であることを誇りとした。 組合員記章の横の三本線は、以上のとおり、「団結・抵抗・統一」を意味し、三角形は「竪坑やぐら」、その地底(じぞこ)で働く炭鉱 労働者を「つるはし」で表わした。鳩は、働く者とその家族、そして社会の「平和」を願って、デザインされた。 -
黒い羽根運動バッジ
バッジは、かつて三池炭鉱があった熊本県荒尾市の高田さん宅にあったバッジ。 ツルハシに黒い羽根のデザインをあしらっているところから、「黒い羽根」助け合い運動に関係するものと思われる 黒い羽根運動と言えば昭和30年代、中小炭鉱がひしめいていた筑豊地方から始まった。当時貧困にあえいでいた失業者はざっと 2万3000人。その一つに、昭和31年7月閉山になった室井豊徳炭鉱(田川市猪位金)があった。その炭住に住む40世帯188人の人たち は失対事業やボタ拾い、練炭作りなどの手間仕事で辛うじて命をつないでいた。月5,6千円程度の収入で平均4.95人の家族では一 日2食の食事さえかなわず、沼地にいるザリガニを捕って蛋白源とした。うどん、ダンゴ汁、ジャガイモ、サツマイモ、カボチャな ども主食となった。親も子も栄養失調でやせこけ、乳児の死亡率も高かった。(昭和34年11月29日付け 三池労組機関紙「みいけ」 参照) そんな中、「石炭不況による炭鉱失業者を救おう」と、福岡市の主婦たち10人が呼びかけた「黒い羽根運動」が全国に広がって いった。今でもおこなわれている“赤い羽根”募金運動の赤い羽根を、石炭が黒いことから黒い羽根に置き換えたものである。炭労 ・母親大会などを通じて全国的な運動となり、小学校などでも赤い羽根募金同様に募金がおこなわれた。 それにしても、黒い羽根運動に伴うバッジの存在はめずらしい。